なんとか日本から引き金を引かせようと
挑発を続ける中華
歴史を紐解くと
第1次日中戦争の時も似たようなことをしていたのだ。
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暴支膺懲(ぼうしようちょう)とは、支那事変(日中戦争。対米英開戦以降は太平洋戦争に含まれる)における日本軍のスローガン。「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」を短くした四字熟語。「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意味。
通州事件や、戦線における中華民国(台湾)[1]の戦時国際法違反(便衣兵の使用)などがこの背景にあったと言われる。一方、大本営はこれを国民の戦闘精神を鼓舞するため利用したスローガンでもある。
1937年(昭和12年)の盧溝橋事件以降は特に用いられるようになり、暴支膺懲国民大会が数多く開催された。同年7月21日には日本革新党が日比谷公会堂で開催した[2]ほか、9月2日に東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「抗日絶滅」や「共匪追討」がスローガンとなっており、政財界・言論界の人物が登壇したという[3]。
wiki
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暴支膺懲(ぼうしようちょう)
中国を懲らしめよという当時のスローガンだ。
日中戦争の契機となった
盧溝橋事件ですら、
実際は中国共産党の陰謀で
なんとか日本と開戦したかったようだ。
日本に国民党軍を攻撃させ弱ったところで
共産党はおいしいからだ。
とにかくあらゆるちょっかいを中国からだされており
堪忍袋の緒が切れた形で、
暴支膺懲をスローガンとして
リアルに中国を懲らしめてしまったようだ。
もっとも中国とは
アメリカとの戦いのように
血みどろの戦いをしたわけではない。
wikiにも詳細がのっているが
戦争末期の1944年にも日本側の大陸打通作戦などが
大々的に成功しており、
中国側はたいして戦わず撤退戦ばかりで兵力を温存していたようだ。
終戦時の撤退の際には、
蒋介石側は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった。
しかし、共産党の毛沢東側とソ連は、軍民合わせて100万名もの
日本人の犠牲者を出したそうだ。
当時から共産党は、悪の塊だったわけだ。
戦中に実際に戦ったのは、ほぼ蒋介石側の国民党軍であり
共産党軍は逃げ回って、兵力を温存。
そして、内戦で勝利して今の共産党ができたわけだが
現在の中国との問題も
まさに「暴支膺懲」があてはまる。
とっとと
中国側から、攻撃してくるようにあおって仕向けて
開戦→ちょっとした小競り合い→中国国内で革命
→共産党崩壊→ついでに北と南の戦争再開
までもっていってほしいところ。
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太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1850年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。民間人を含めると、この乱で2000万人近くが死亡したとの説もあり、ギネスブックやブリタニカ辞典には、歴史上最も犠牲者の多かった内乱として記録される。
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中国様、自国がたてたギネス記録更新お願いします^^
アメリカ様も
アフガンとかイラク系の戦争から
だいぶ時間がたって
弾薬の在庫がだぶついているので
処理したいところでしょう。
実践でラプターの活躍が楽しみですね^^
国民が早く戦争にな~れ~
といっているのは
太平洋戦争前もこんな状態だったんでしょうね。