「三段撃ち」で片づけると、この戦の本質を見失う

天正3年、1575年の長篠・設楽原の戦いは、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った戦として知られる。学校で習った記憶をたどれば、馬防柵の後ろに鉄砲隊を三列に並べ、一列ずつ交代して射撃する「三段撃ち」で武田の騎馬軍団を撃破した、という姿を思い浮かべる人も多いだろう。

だが現在では、この整然とした三段撃ちが実際に行われたという見方には慎重な評価が強い。地元の歴史資料館も近年、この問題そのものを企画展の題材として取り上げ、従来の定型的な説明を再検討している。

では鉄砲三段撃ちがなければ、織田・徳川軍はなぜ勝てたのか。

軍師の目で見ると、むしろこちらの方が面白い。信長の強さは「新兵器を持っていた」ことではなく、敵が最も嫌がる戦場を先に作り、敵がその場所で戦わざるを得ない状況まで整えたことにある。勝敗は射撃開始より前から大きく傾いていたのである。

長篠城を落とせなかった時点で勝頼の時間は減っていた

戦いの出発点は長篠城である。武田勝頼は大軍を率いて長篠城を包囲したが、城主の奥平貞昌ら少数の守備側は抵抗を続けた。長篠城は豊川と宇連川が合流する地点にあり、自然地形を利用した守りの固い城であった。

ここで重要なのは、城が巨大だったことではない。援軍到着まで持ちこたえられるだけの防御力があったことである。

籠城側から徳川方へ窮状が伝わり、徳川家康だけでなく織田信長の軍も救援へ動いた。武田側から見れば、短期間で城を落としてしまえば戦略的な主導権を握れたが、それができないまま敵の大軍を呼び込む結果となった。

攻城戦では時間も兵力も攻め手の資産である。城を包囲し続ければ兵を拘束され、補給も必要になる。その間に敵の救援軍が近づけば、攻城を続けるのか、包囲を解くのか、野戦へ移るのかという選択を迫られる。

勝頼は最終的に設楽原で織田・徳川連合軍と戦う道へ進んだ。ここから先は「武田騎馬軍団対鉄砲隊」という単純な図ではなく、陣地を準備した側と、その陣地へ攻め込む側の戦いとして見るべきである。

信長の本当の武器は鉄砲ではなく「戦場の固定」だった

設楽原で織田・徳川軍は馬防柵を設けた。現在も現地には再現された馬防柵があり、連吾川沿いに長い防御線が築かれたことが伝えられている。

ここで鉄砲だけに目を奪われてはならない。

火縄銃は強力だが、撃てば即座に次弾を発射できる武器ではない。装填中に敵兵が接近すれば射手は危険になる。ところが柵や地形によって敵の接近速度を落とせば、射手は守られた位置から射撃しやすくなる。

つまり馬防柵と鉄砲は別々の仕掛けではない。敵の移動を制限する防御設備と、離れた位置から損害を与える火力を組み合わせた一つの戦闘システムなのである。

さらに連合軍は敵が来るのを待てる。武田側は前進しなければ戦況を変えられない。守る側は自分たちが準備した場所で戦い、攻める側だけが危険な空間を進むことになる。

軍師にとって、これほど大きな差はない。

強い兵を正面から倒す必要はない。強い兵が本来の能力を発揮できない場所へ誘導すればよい。信長が設楽原で作った優位は、まさにこの発想に近い。

「武田騎馬軍団が柵へ突撃した」という絵も単純すぎる

後世の長篠像では、武田軍が巨大な騎馬軍団となって一直線に柵へ突撃し、鉄砲の一斉射撃で次々と倒されたように描かれることがある。

しかし実際の戦国軍は、騎馬武者だけで構成された軍隊ではない。徒歩の兵も含む複合的な部隊であり、「騎兵だけの巨大集団が一斉突撃した」と考えると戦場の姿を必要以上に単純化してしまう。

それでも武田軍が苦しかったという結論は変わらない。

敵は防御陣地を構築し、多数の兵と火器を配置して待っている。そこへ攻撃を加える以上、武田側は前進する過程で隊形を乱し、損害を受ける危険を背負う。仮に一部が柵へ到達しても、そこで初めて守備側との接近戦になる。

攻撃側が優位を得るには、防御線の一点を早期に崩すか、敵を陣地から引きずり出すか、別方向から脅威を与える必要がある。正面で消耗を続ければ、兵の質が高くても数と火力の差を受け続けることになる。

勝頼の失敗は勇猛さの不足ではない。勇猛さを勝利へ変換しにくい条件で決戦を続けたことである。

鳶ヶ巣山砦への攻撃が武田軍の退路をさらに苦しくした

この戦いを正面の鉄砲戦だけで語れないもう一つの理由が、酒井忠次らによる鳶ヶ巣山方面への攻撃である。

武田軍は長篠城を完全に放棄して設楽原へ全軍を集中したわけではなく、城を押さえる兵力も残していた。織田・徳川側はその後方にも圧力を加えた。

軍隊にとって後方が揺らぐことは重大である。正面の敵だけを見ていればよい状況と、後方の拠点や連絡まで危険にさらされる状況では、同じ兵数でも心理的、戦術的な自由度が違う。

正面には準備された防御線があり、後方にも敵が動く。こうなると武田側が選べる手は減る。

軍師が戦場を設計するなら、敵の兵を一人ずつ倒すことより、敵の選択肢を一つずつ消すことを優先する。退けば目的を失い、進めば防御陣地へぶつかり、長く留まれば不利が増す。この形まで作れば、敵将に残されるのは悪手の中から比較的ましな手を選ぶ作業になってしまう。

私が勝頼なら決戦を避ける

では勝頼側に勝ち筋はあったのか。

私なら、織田・徳川軍が十分な防御陣地を整えた後の正面決戦は避ける。長篠城攻略に失敗し、大規模な援軍が到着した時点で、最初に描いた作戦はすでに崩れているからだ。

作戦目的が崩れた時に最も危険なのは、「ここまで来たのだから戦う」という心理である。投入した時間や兵力は戻らない。ならば、それを惜しんでさらに大きな損失を出すべきではない。

武田軍の強みを残すなら、連合軍が用意した戦場から離れ、機動できる余地を確保する。敵が追撃して陣形を伸ばすなら、その時こそ反撃の機会が生まれる。敵が追わなければ、少なくとも主力を温存できる。

もちろん撤退すれば政治的な損失はある。長篠城を得られず、徳川領への攻勢も失敗に終わる。しかし一度の作戦失敗と、熟練した家臣団を多数失う決戦敗北では、後者の方が長期的な代償ははるかに大きい。

軍略とは、毎回勝つ技術ではない。負ける局面で損失を限定し、次に勝てる兵力を残す技術でもある。

「新兵器が旧式軍を倒した」という物語ではない

長篠・設楽原の戦いを「鉄砲という新兵器が騎馬軍団という旧式兵力を滅ぼした戦」と理解すると分かりやすい。だが、それでは信長の戦い方を過小評価することになる。

鉄砲が重要だったことは疑いない。しかし勝敗を支えたのは、長篠城が持ちこたえたこと、救援軍を集中できたこと、防御陣地を構築したこと、馬防柵と火力を組み合わせたこと、そして武田側がその条件で攻撃せざるを得なくなったことである。

いわゆる三段撃ちが整然と行われたかどうかは、戦いの核心ではない。

仮に三段撃ちという定型的な戦法が存在しなかったとしても、織田・徳川軍の戦略的優位は消えない。むしろ後世の華麗な逸話を外した方が、「敵より先に勝てる場所を作る」という信長の冷徹な強さがよく見えてくる。

軍師の見立て

この戦、勝ち筋は鉄砲の撃ち方ではなく、武田軍の選択肢を削って設楽原の防御線へ向かわせたことにあった。信長は強い武田軍を真正面から上回ろうとせず、武田の強さが働きにくい条件を先に作ったのである。勝頼が最も避けるべきだったのは敗北そのものではなく、敵が準備した勝負に主力を賭けることであった。軍師として判定するなら、長篠・設楽原は「鉄砲が騎馬を破った戦」ではなく、「戦う前に戦場を支配した側が勝った戦」である。