諸葛亮曰く、巨大帝国で皇帝が突然死し、後継者が決まっていない。この局面で最も危険なのは外敵ではなく、帝国を構成する王族同士が次の支配者を巡って割れることである。1241年にオゴデイが死去した後、モンゴル帝国では皇后ドレゲネが実権を握り、1246年に息子グユクが第3代皇帝へ選ばれるまで政治を動かした。この約5年間を「帝国を混乱させた悪政」と見る意見がある一方、「最終的に自分の息子を皇帝にした以上、政治家として勝っている」という意見もある。軍師として見るなら、善悪より先に、彼女が何を守り、何を壊し、最後に何を手に入れたのかを分けて考えるべきである。

オゴデイの死で帝国に生まれた巨大な空白

チンギス・カンの後を継いだオゴデイは1241年に死去した。モンゴル帝国では皇帝位が単純な長子相続で自動的に決まるわけではなく、王族の合議によるクリルタイが大きな意味を持った。しかもオゴデイが後継者として期待していた長男クチュはすでに死亡していたため、誰を次の皇帝にするかは簡単ではなかった。

この空白で前面に出たのがドレゲネである。彼女はオゴデイとの間にグユクら複数の男子を持ち、やがて帝国の摂政として政務を掌握した。最終目標は明瞭で、息子グユクを皇帝位へ押し上げることであった。

意見では「自分の息子を帝位につけたわけで、落第点のわけがない」と、その一点を高く評価する見方がある。これは権力闘争として見れば筋が通る。皇帝不在の帝国で数年間権力を保持し、王族の利害を調整しながら自らの候補を最後に即位させたからである。

しかし、その過程は穏当ではなかった。オゴデイ時代の官僚チンカイやマフムード・ヤラワチらと対立し、旧政権の行政中枢は大きく揺れた。意見でも「オゴデイ時代の有能な重臣たち」を遠ざけた点を問題視する見方があり、ドレゲネ政権を低く評価する根拠になっている。

悪女論が生まれる最大の理由は旧臣との対立

ドレゲネを悪政の象徴とする評価では、側近ファーティマの存在がしばしば語られる。ジュヴァイニーなど後世に伝わった史料では、ファーティマがドレゲネの宮廷で強い影響力を持ったことや、オゴデイ期の有力者との対立が記されている。

このため「国政を私物化した」という厳しい意見が出る。行政を継続するなら、前政権で実務を担った官僚を利用する方が短期的には安全である。それを排除すれば、徴税、財政、征服地統治の経験まで失う危険があるからだ。

一方で、別の意見は「正悪論で語るのは意味がない」とする。ドレゲネが直面していたのは単なる宮廷内の人間関係ではなく、チンギス家の諸王が広大な領土と軍事力を持つ帝国である。前政権の官僚機構をそのまま残せば、摂政である自分より旧臣の方が強くなる可能性もある。権力基盤の弱い摂政が人事を入れ替えること自体には政治的な理由があった。

軍師の目で見れば、ここでドレゲネは行政効率より権力確保を優先した。国家経営だけなら危険な手だが、後継者争いの最中という条件を加えれば理解できる。彼女にとって最優先の敵は国外の軍ではなく、グユク即位を阻止できる国内勢力だったからである。

バトゥが動かなければ皇帝を決められない

グユク即位を難しくした最大級の障害が、ジョチ家の実力者バトゥである。西方遠征を率いたバトゥは広大な勢力圏と軍事力を持ち、皇帝選出を無視できる存在ではなかった。

意見ではグユクとバトゥの対立について、「宴会の席でグユクがバトゥを罵倒した」ことだけを原因と見るのは弱いという指摘がある。別の意見は、ジョチ家が西方で独自の権益を持っていた以上、中央権力を強めたいグユクとの対立は構造的だったとする。「それだけでカンに抵抗するとは思えない」という疑問は、この問題をよく表している。

ここは軍事組織として考えると分かりやすい。バトゥは遠方に巨大な兵力と領土を持つ方面軍司令官に近い。一方のグユクは帝国中央の最高権力を目指す。中央が強くなれば地方の裁量は狭まり、地方が強くなれば皇帝の命令は届きにくくなる。個人的な不仲がなくても衝突する条件はそろっていた。

ドレゲネはそのバトゥを完全に屈服させたわけではない。それでも1246年にクリルタイを成立させ、グユクを皇帝にした。反対勢力を消滅させるのではなく、反対勢力が残った状態でも自陣営の目的を通したのである。

テムゲの動きは権力空白の危険を示した

議論では、チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの動きについても意見が割れている。オゴデイ死後の混乱に乗じて権力を狙ったと見る立場に対し、ドレゲネ側の政治的演出だったのではないかという見方まである。

「大オルドに権力の空白が生じたと思ってたんじゃないの」という意見は、当時の危険を端的に示す。皇帝が死に、次の皇帝が決まらない期間が長くなれば、チンギス家の各系統が独自に動く余地が広がる。巨大帝国ほど、この空白は危険である。

一方、「演技はない」とする意見では、その後にオッチギン家側で処罰が出たことを重視する。ここで史料から断定できない細部を無理に一つへ決める必要はない。重要なのは、ドレゲネ政権が単なる留守番ではなく、王族同士の権力競争を処理しながら皇帝選出まで時間をつないだ政権だったことである。

もしドレゲネが何も決めず、諸王の要求をすべて受け入れていたなら、中央権力はさらに弱体化した可能性がある。反対に強引な人事と権力集中は敵を増やした。この二つの危険の間で、彼女は後者を選んだ。

グユク即位は勝利だが、帝国の問題は解決しなかった

1246年、グユクはクリルタイで皇帝に選ばれた。ローマ教皇の使節プラノ・カルピニもこの時期のモンゴル宮廷を訪れており、帝国の威勢がユーラシア各地へ及んでいたことを伝えている。ドレゲネの政治目標だけを採点するなら、息子の即位によって目的は達成された。

だから「ドレゲネ有能じゃん」という意見にも根拠はある。摂政として権力を握っただけでなく、最終的に自派の候補を皇帝にしたからだ。権力闘争では、最後に人事を決めた側が強い。

しかし国家戦略として見ると評価は下がる。グユクとバトゥの対立は解消されず、グユク自身も1248年に死去する。その後は再び皇帝位を巡る争いが起こり、やがてオゴデイ家ではなくトルイ家のモンケが皇帝となる。ドレゲネは一局には勝ったが、自家の長期支配を固定するところまでは到達しなかった。

つまり彼女の政治は、短期の後継者争いでは成功し、長期の帝国統治では大きな負債を残したと分けるのが適切である。旧臣を遠ざけ、バトゥとの対立を残し、グユク即位後も王家間の緊張を解消できなかった。息子を皇帝にする戦術と、帝国を安定させる戦略は同じではなかった。

軍師の見立て

この戦、ドレゲネの勝ち筋は「帝国全体を満足させること」ではなく、「皇帝選出まで中央権力を握り続け、グユクを即位させること」にあった。その一点では彼女は勝者であり、単なる無能な悪女という評価は弱い。しかし旧臣との対立とバトゥとの亀裂を抱えたまま勝ったため、その勝利は次の内紛を抑える仕組みにならなかった。軍師としての判定は、政争には勝ったが帝国の布陣には勝てなかった、である。